大阪のねじ・生産地卸

第一ボールト 生産地卸商社

生産地大阪

大阪九条
大阪における鉄工業のうち機械器具の部品類の製造を主とする工業は東大阪(大阪市の東)では布施、今里、生野方面が多く、西大阪(大阪市の西)では 西成、津守、港一帯が盛んであった。その中でも特に九条のボルト・ナットの製造工業は歴史も古く、技術的レベルや工場の数の多さは大阪で、そして、 全国で一番であった。
古くは衢壌(くじょう)島、江戸時代の儒学者林羅山が命名した栄える土地という意味を表記していた九条だが、江戸時代、数名の船大工が住み着き木材による 造船の仕事を始め、明治になって、日本で初めての様式造船所が生まれた。日露戦争(明治三十四年)の頃から造船用、機械用ボルト・ナットの需要が大きく なり、九条の各地で生産した。昭和に鉄工業は益々盛んになり、小さいながら鉄材の伸展、引抜、剪断、機械部品の鋳鍛造、型打工場が現れ、太平洋戦争まで 発展を続ける。戦後も、朝鮮動乱を機に立ち直り、生産技術の改良もあって、製品の品質、数量ともに世界的水準にまで進歩した。

普通の日常生活であれば、1m以内に必ずねじがある。それほどまでに生活の中にねじが入りこんでいるということだ。見えないところで社会(産業や生活)を 支えている必需品なのである。一般にねじの生産量は粗鋼生産の1.5~2.5%といわれる。昭和四十六年の試算では、日本は既に世界第三位の生産国である。 が、実際の国内需要や輸出量を考えると実質世界第二位ではと推定される。輸出量に至っては昭和四十三年にトップ、世界の総輸出量の35%を占めている。 昭和という時代に、ねじ産業がどれほど発展したかが、一目瞭然であろう。しかし一方で、輸入量の増大、変革、低迷、衰退など、データからは数々の歴史が 読み取れるのだが、良くも悪くも昭和という時代は激動の時代であり、ねじの業界も例に漏れない。

大阪の場合は、各地に発生したねじ工場のうち、工場を拡大し、大量生産を目指す会社が、東大阪や八尾に進出する。昔の人の話を信じるなら、昭和三十年代は 全国の70~80%を生産していたそうだ。しかも、品質も他府県の製品とは大きな差があったそうである。



商社の存在意義

ねじ商社役割
次の図はねじの流通を図式化したものだが、第一ボールトは生産地卸商社である。九条や東大阪を中心にしたねじ生産地を背景にして全国に大量販売を行う 問屋的商社である。対して消費地にあって直需店や、エンドユーザーに販売するのが消費地卸(地方卸)で、第二次的商社(二次問屋)の性格を持つ。 ただ、業界のルートは複雑であり、大阪の商社にしても、この会社はこの位置に属すという言い方は難しい。扱う商品によっては、どの商社も様々な 販売パターンを持つ。

商社の役割をもう少し述べたい。もし商社がなければ。。。ねじメーカーから直接ユーザーへ納入すればいい。コストもぐんと下がるだろう。図をみても一部 そのルートは存在する。特に自動車メーカーなどへの納入がそうであるし、規格品を大量に使うユーザーに限っての話となる。 だが、一般的には、ユーザーの要求する製品の量や組み合わせと、ねじメーカーの生産する種類、量は根本的に異なる。つまり、ねじメーカーが生産するほど 規格品を大量に必要とするユーザーはほとんどないし、ボルト、ナット、ワッシャー、ビス、材質、サイズ、仕上げの違いなど(現在は締結部品を総称して ファスナーと呼ぶ)ユーザーが望む組み合わせを一挙に生産できるメーカーも皆無である。ここに商社の存在があり、ユーザーが望む流通を担うわけである。

さらに製品価格などを含め、流通を創造していくのも、ねじ商社である。しかしながら、昭和三十六年頃で既にねじのアイテム数が8,000強、現在ではなんと 300万種といわれる。すべてを扱える商社もこれまた皆無なのである。得意分野、生産メーカー、特定メーカーの代理店権利、協力工場、地方商社、倉庫設備、 海外貿易など、様々な要因との関わりでそれぞれ異なる性格を帯びたいろいろなねじ商社が誕生したのだ。